Serow225 ~ 生誕30周年


 

セロー生誕30周年。おめでとうございます。
30年の歳月は、一台のオートバイをこんな形に変えた。

僕の225は’85年式の1KHという初期型で、ちょうど30歳。タンクのカモシカの角が枝分かれしてる「奈良の鹿」と言われる最初期のモデルだ。このセローについて書きたいと思っていたのだけど、このオートバイから受けた印象をうまく記せそうもなくて、どうしたものかと思っていた。僕がもし、30年前に新車として買って未だ乗り続けているのだとしたら、少し自慢たらしく話してしまうかもしれない。でも僕のセロー歴はまだ数年。つまり、あまり真剣に聞いてもらっても困るのだけど、何かのついでにでもなればと書いてみる。

セローには昔から逸話があったように思う。
セローは一見、初心者向けのようでいて、実は懐が深く、上級者が乗ればエンデューロレースでも上位に食い込める。そんな夢のような話があるが、それはきっと夢だと思う。弱者が強者を凌駕することはどの世界でも痛快であり、我々はそんな物語に憧れと羨望を抱く。エンデューロレースの上位に食い込むのは、恐らく乗り手の技量であって、セローによる所以ではないと僕は225に乗って思う。エンデューロにおいてパワーが全てとは思わないし、むしろ非力であることが良い結果を招くこともあるが、セローの戦闘力という点に限って言えば、あなたの予想を裏切らないほどには低い。

そもそも戦闘するオートバイではない。言わずもがな。ではセローの基本コンセプトにある「二輪二足」の考えはどうかというと、マウンテントレールという目の粗いザルでざっとすくい上げれば共感するが、バタ足や手押しが難所のクリアに最適解なのかと問われれば、その通りのようでもあるし、どこか的外れな気もする。足漕ぎしながらじゃ走りづらくてしょうがない。

結局、セローの何が言いたいのかというと、特に何も。
何も特別なところがない、なのにまた乗りたくなるところ。乗り味とて大して褒められたものじゃない。すごく普通だ。セローが名車なのか僕にはわからない。だから、不思議なのだ。特段優れたところもなく、しかもケツは猛烈に痛く非力なトレールバイク。なのに、こいつで出かけたい、遠いところへ旅したいと思わせる何かが、確かにある。

読み返してみたら、なにも良い点が無いな。
個人的に大好きなのはミラーから見える光景。おもむろにミラーを覗くと、青い空ともくもくの雲がビル郡の上にかなりの範囲で見える。広角レンズを覗いた時のようなワクワク感が、思わぬところで目に飛び込んでくるので得した気分。このミラーはすごく、良い。そして何よりもセローの一番好きなところ、声を大にして言うけれど、それは「たたずまい」。その名の通り山が良く似合う。そしてのどかな田園風景や田舎の集落にもすこぶるマッチ。驚くことに大都市の中でだって決して景観を損なわず、決して主張しすぎず、風景にとけ込み、すごく絵になるんだなあ。

やはり、このオートバイの印象をうまく記せそうにない。もしも、セロー225に興味があるのなら(250はワカリマセン)、僕は試乗など勧めない。安いのだし買いなさい。少し乗ったくらいでは、このオートバイの良さはわからない。僕は、願わくばこのオートバイを乗り続けたい。

 

 

カテゴリー: 1KH

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